時間泥棒と盗まれる時間のない空間

前のブログの最後に以下のように発言していますが、

「はっきり言って、自分の存在がすでに『トンデモ』だと思うし、信じてくれなくても一向にかまわないけれど、究極的には『人は死なない』って私は思ってるんですよ。そんでそのテーマの研究を3歳から(無意識時代を含んでだと、たぶんそっからと思う)してるんだよね私。」

正確に言うと「私」という肉体や人格は死ぬ。だけれど、「私」という「意識」「認識」「魂」…何と言ったらいいかわからないけれど…は死なないのではないかと私は思っています。

あとは、まあまあ科学的な視野で説明すると生物学的な「死」って「細胞の壊死」のこと。最新の医学ではいろいろな解釈があろうかと思いますが、今は一般的にそうですよね。でも、人間を含む物質の最小単位である素粒子は人が死んでもなくなるわけではなく、完全にすべてが消滅するということにはならない。ミクロな視点でみると細胞が壊死することで「人」という全体像はなくなるけれど「素粒子」は「空間」の中に舞い散るわけですね。

だから、とある空間にいくと「なんだか気持ち悪いな」「気分が下がる」とかいうのは素粒子経由で「死者の記憶」が空間のどこかに舞いっぱなしになっているのかも。・・・とかここ2行は私の妄想ですけどね(笑)

そんなこんなで、今日は時間についての散文を。散文だからまとまってない。しかもどんどん考えも変わると思うので「現時点」での考えです。

これは、私だけが持っている感覚ではないと思うけれど「時間は流れていないんじゃないか」と前々から思っている。ただ、ずーーーっとそう思っていると社会的な生活が成り立たないので「朝昼夜」「時計」も見て時間の流れに従うし、時間の中に埋没するときもある。人間だもの(笑)

だけど例えば、このブログを書いているような熱中、集しているときや本を読んでいるとき、ぼーっとしていない時なんかは「今がいつで、何時何分で、自分が何歳で、どこのだれか」忘れてしまうことはありませんか?あと同じ一日でも、すごく長く感じる日と、「あっという間」に感じる日とありますよね。そういう経験をすると、やっぱり「時間は流れてないし感覚的なものだよな」と思ってしまう。

流れている時間の中にいる 6割 時間の概念から外れた場所にいる 4割

トータルでいうと、今はそんな感じなのかなあと自分自身で思う。

ただ2年前に、「会社」という集団の中にいたときはこれが「9割時間の中にいて、1割外れている」状態だったと思う。とてもとても「自分の時間」が少なかった。もちろん「会社」にいても時間の概念の外にいる時間が長い人もいるよ。どこにいるかはあんまり関係がないかもしれません。どこにいても、それは自分の「感覚」の話だから。

そして、「時は金なり」とか言って「時間」が「お金」に例えられることがある。これにとても敏感に反応して寓話を描いたのは、ミヒャエル・エンデという人。すごくお話上手だしハンサムだし親日家で熱血漢だったし、超会ってみたかったので、「エンデ話」は別に書くとして。結構私たち「時間=お金」だとして自分の「時間を切り売り」して「貨幣」を得ている=「時間を盗まれた」ように感じてしまうことが多い。

ただ、ほんとうは「時間が流れていない」=「はかれない」のだとしたら灰色の男たちが「時間を盗む」ことは不可能なんだよね。だから、「時間の概念の外」にいる瞬間を増やせば増やすほど、「時間を盗まれた」感覚に陥ることから自分を救うことができるかもしれません。

最後に、とても分かりやすくキュン♪とするエンデの文章を。

「時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。出典ミヒャエル・エンデ(1976)『モモ』、大島かおり訳(2005)岩波少年文庫」

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